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私の2011年3月11日 [after 3.11]

今日は8/19。もう震災から5カ月以上が経った。いまだに原発の問題は続き、食べ物など不安は続いている。東北の被災地では多くの方が亡くなり、想像を超えたリアルなドラマが繰り広げられ、今も続いている。
そんなドラマに比べたらその日の僕の出来事は取るに足らない些細な話だが、自分の中でもきっと風化してしまうのが怖いので残しておきたいと思い、まとめてみた。もう既に風化してしまっているのだろうけど。




その地震の瞬間、僕は会社の会議室にいた。

14時から開始したそのアイディア出しが乗ってきたところだった。
最初、よくある地震かのように、カタカタと揺れを感じ、「地震だ」と話し始めたが、やがてその揺れが今まで体験したことのない大きな揺れへと変わっていった。その異常な揺れに動揺を隠せず、参加者と「え?」「マジ?」とどうしたらいいのかわからず机につかまっていた。「ドア開けたほうがいいんですかね?」という声に促され、会議室の扉を開け、柱に捕まっていた。窓の外を覗いてみると、既に多くの人が出てきてもいた。3分くらい揺れ続けただろうか、ようやくその揺れがおさまり、会議室のあるフロアの居室の知り合いと顔を見合すことができた。
会議参加メンバーとは其々の職場へ戻るよう確認し、自分は会議室のあったフロアから居室のフロアへと移動した。途中エレベータホールを通過する際、柱の下に粉のようなものが出ているのが見えた。持っていたスマホで写真を撮ったのだが、手が震えてしまった。。。

居室に戻ると防火扉が閉まっていたり、引き出しが出ていたりと揺れの激しさをさまざまなものが物語っていた。PCを席に置くなどしているうちに再び大きな余震。これも大きいし長かった。いくつかのテレビがつきグラグラと揺れながらも報道を試みている状況が映し出される。窓の外を見ると黒煙が上がっているのが見える。方角からするとお台場方面。テレビでお台場のビルの屋上が大きな火事になっている模様が伝えられる。しばらくすると他のテレビを見ている一団から悲鳴が。駆けつけると津波の映像。大量の車がいとも簡単に押し流され、さらには船も傾きながら流されていく。その映像は簡単に理解することができなかった。再び余震。。。

家族の安否が気になり妻にケータイから連絡を取ろうと試みるも既に繋がらず。会社の電話も同様。
次に思いついたのがtwitter。まずとにかく

と。確か外出していたはずと思いだしGoogleカレンダーで予定を確認すると、会社近くの友人宅に行っている時間と分かり、そのメンバーあてにつぶやく。しばらくして向こうからも応答があり無事が確認できた。
友人宅は高層マンションの13F。この揺れで当然エレベータは止まっているだろうし、電車の復旧も見込めない。下の娘も一緒となると一人での見動きは難しいだろうと考えpickupすることになるだろうと理解。

これまでの人生最大の揺れと、引き続き起きる大きな余震に動揺が続いていたが、最初の地震から2時間ほど経ち、周りでも打ち合わせに戻る人や業務を進める人の姿も見えてきた。16:30ごろ、友人が歩いて帰るというtweetが出だしたりするのを見て自分も決意、まずオフィスから友人宅へ向かった。
  • tsunayukiohwatsunayukiohwa軽い船酔い状態。。。03/11 16:00
  • tsunayukiohwatsunayukiohwaオフィスは平穏を取り戻しつつある。03/11 16:09


オフィスビルを降りる際、何人もの人とすれ違った。この状況でも打ち合わせに向かっているようだった。
ビルの外は裏口から出たのもあったのだろうが比較的平穏で驚いた。裏道を抜け、品川駅付近の15号沿いに出ると、状況が見えてきた。既に道は多くの歩行者が出ており人混みができ始めていた。以前防災のしおりか何かで読んだ通りの状況になりつつあるのではないかという予感を感じた。公衆電話には既に長蛇の列。なぜかラーメン屋などのお店も大混雑していた。品川駅高輪口はさらに混雑。タクシーやバスに並ぶ列が溢れ、駅方面から続々と人が流れ出てきていた。逆流するように駅に近づくと、京急線の入り口は既にシャッターが閉められ、JRの方も改札口はシャッターが閉められていた。中央通路の照明が一部破損しているようだった。
  • tsunayukiohwatsunayukiohwa車の渋滞はもちろんだが、歩行者もかなり多い。03/11 16:51
  • tsunayukiohwatsunayukiohwa品川駅。改札閉まってる。高輪口は初詣状態03/11 16:59

駅を抜け、風の強い道を足早に歩き、友人宅のマンションの前へ辿りついた。マンションの1階ロビーには多くの子連れがいた。エレベータが動いていないので上がれないのだろう。
覚悟を決め、エレベータホールの脇にある階段室へと入った。そのマンションの階段は1階分上がる途中に折り返しがなかったので少し気分的に楽だったが、4階、5階と上がるうちにもう息は上がり、ペースをコントロールしながらなんとか13階登り終え、合流することができた。

これで家族3人が合流できたものの、長女を預けている保育園といまだに連絡が取れない。18時頃1歳児を抱っこひもで抱っこして妻とともに歩きだす。友人宅の周りの道はあまり車が走っていなかったが、品川駅まで戻ると15号は大渋滞が始まっていた。そして歩行者も来た時よりずっと多くなっており、焦る気持ちと裏腹になかなか先に進めない状況となっていった。でも一方でこれだけたくさんの人たちと一緒に歩けていることは心強くもあった。途中何度もケータイから連絡を取ろうと試すも、この状況なのでなかなか通話可能とはならず、さらに圏外となってしまうからか、バッテリーもみるみるなくなってしまう。一応それように持ってきたPCを起動しUSBケーブルから充電をしながら歩き続けた。

1時間くらい歩いたところで、たまたま待っている人のいない公衆電話に遭遇できたので(公衆電話は無料で通話できるようになっていた)、保育園に連絡、娘の無事を確認することができた。無事が確認できると気持ちはだいぶ楽になり、歩く足取りも幾分楽になった。
幹線道路の車は歩行者の方が早いのではという感じの進み具合だった。途中見かけるコンビニはどこも混雑していた。おにぎりを作って配ってくださる沿道の方がいた。自転車屋さんは大混雑していた。途中さらに長い距離歩いて来ていた近所の友人たちに会えたりした。家の近くの区域に入ると一部停電していることがわかった。街の一部や高層マンションなどが闇に包まれていた。

最寄駅付近で、駐輪場にとめてある自転車をpickupして先を急いでもらうために妻と一端別れさらに保育園まで歩いた。そしてついに保育園までたどり着いた。他にも親が帰ってこれない子どもたちがいることは頭で理解していたのに、娘の顔を見た瞬間、つい安堵で大きな声で呼びかけてしまった。夜9時を回ったところだったが、全先生が残っていてくれ、まだ多くの園児が親の帰りを待ちつつ、寝かせる準備などが進められていた。後日聞いたところ先生方は朝まで残っていてくださったそうだ。

ようやく家族全員揃い、自転車を押しながら自宅に向かった。通った道は停電がなかったが、途中交差点の左を見渡すとその先がずっと停電してまっ暗闇になっていたりした。自宅がどうなのか気になりつつ歩みを進めた。自宅の前の通りまで来ると、街灯が点いていたのでほっと一安心して近づいてみると、すぐ隣の家は電気が点いているのにうちのマンションは真っ暗だった。表の入り口には多数の自転車が止まっており、オートロックのエントランスのドアは開いたまま。外は街灯が点いているので明るいのだが、少し中に入ると建物の中はほんとに真っ暗なので、残りわずかなケータイの明かりを頼りに階段を上がりなんとか自宅へ到着。防災訓練の度にオフィスビルからもらっていたLED懐中電灯などを取り出していったん荷をほどく。歩き始めから3時間、トイレに行っていなかったのだが停電してしまうとトイレも利用できないのでほんとに困った。帰り道の途中に通った友人宅マンションは停電していなかったので、電話を試みても繋がらなかったのだが押しかけようと決め、まずは子どもたちの着替えなど荷作りを暗闇の中始め、準備も整いよしいくか、と出かけようとしたその時、電気が復旧した。

ようやく帰りついた。

お友達の家に遊びに行けると思った娘が行けなくなり逆にぐずったりしたりして、残り物のご飯でおにぎりを食べたりして、いつもより遅くなりつつ子どもたちを寝かしつけたりして。テレビからは引き続き昼間の津波の惨事の映像や深夜まで歩行者が溢れる東京や大規模な火災の状況などが伝え続けられていた。




この日のtwitterの記録

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